残響



晩秋の午後のことである。葉の落ちた枝に日が照って、外はたいそう明るかった。 しかし、そのために窟には深い影があった。
私は岩壁の裂け目から入った。師は入り口に差し込む光を見ず、私を見なかった。 窟の奥の、影のいっそう深い所に向かって座していた。寂しい原の巌のように、森の奥の古木のように。

「師よ」

私が呼ぶと、いらえがあった。しかし、師は私を見ず、木に照る光も見なかった。 それは昨日も一昨日も、その前も同じことであった。私はたいそう心配し、言った。

「師よ、なぜお顔を見せてくださらぬのですか。私は本当に心配しています。 師よ、どうかおいでになって、外をご覧になってください。 天は高く青く、また、光は白く清らかです。木々の梢にも、枯れ野にも照り映えています」

「如浄よ、まさにそのことのために、私は顔を背けるのだ」

師は言った。その声は、遠くに吹く風のように微かであった。 私の心に悲しみが起こった。私は師を父のように思っていたからである。

「師よ、あなたは昨日も、一昨日も、その前も、食を絶っておいでです。 どうか私と共に来て、暖かい粥を召し上がってください。 あなたが召し上がらない限り、私の心はどんなことにも楽しまぬのです」

「如浄よ、空は目に美しく、日の光は身に快く、粥は臓腑の喜びだろう。 しかし、まさにそのことゆえに、私は顔を背けるのだ。はっきり言っておく。 私はこの月を越えて現世に留まることはない」

黒雲のごとく、私の心に恐れが起こった。私は切れ切れに問うた。

「師よ、あなたは去ってしまわれるのか」

「そのとおりだ、如浄よ」

「何時の日に」

「今日、この日」

「時は」

「今、この時」

微かな衣擦れの音がして、師が立ち上がった。私ははっとした。 しかし、私の足はまるで根がはったように、動かないのだった。
師は窟の奥の、影の深い方に歩いていった。ほの白い背中がだんだん遠くなる。 そのゆっくりした足取りにあわせて、澄んだ鈴の音がするのだった。 師が右の手に持って、一足ごとに鳴らしているのだった。
痩せた丈の高い背中が、影の中で次第にぼやけ、何かほの白いものが、もやもやと動くばかりになった。 私は目を凝らした。しかし、瞬きをする間に、何も見えなくなった。
けれども、まだ鈴の音は聞こえていた。澄んだ美しい音色が、闇の彼方から響いてきた。 私はその響きに、師の足取りを見るような思いがした。
やがて、音はこだまを伴うようになった。こだまを返すような、高く開けた場所に出たのに違いなかった。 師の振った鈴の音は、高い壁に跳ね返り、幾度となく反響を呼んで、私のもとへやってきた。
しかし次第に、二度目、三度目の反響ばかりが届くようになった。 それらのこだまを生み出すはじめの音は、最早あまりに遠いのだった。
今や私は、身にしむような思いで、遠くの微かな反響を聞いた。 私の目から涙がこぼれた。鈴の音はいよいよ遠く、いよいよ幽けく、 最後に耳に触れたのは、最早音とも呼べないような、僅かな虚空の振動だった。 それきり、もうどんな音もしなくなった。
私は随分長い間、その場に立ちすくんでいた。 それから覚束ない足取りで、窟の奥に進んでいった。
十歩も歩くと、すぐに岩壁に突き当たった。 闇に慣れた目を凝らして見れば、そこにはただ、不可思議な微笑を湛えた如来の姿が、荒い鑿で彫ってあるばかりだった。



2009.3.3

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