松風館の幽霊



私が松風館に着いたのは陰鬱な夕暮れ時であった。 荒れ果てた庭には、唐松や楡の木、その他名も知れぬ雑草がほしいままに蔓延っている。 そこを行き過ぎ、重々しい扉につくと、それは私が記憶しているかつての姿よりいっそう古びたようであった。
玄関の石壁に幾重にも折り重なって蔦性の植物が張り付いている。 思いもかけぬ荒廃の様に私は一瞬ひるむような気持ちになった。 しかし、そのまま案内を乞うて彼の館の客となったのである。

この松風館の主人は私の年来の友人である。 彼は五年前にこの館を譲り受け、以来ずっとひとり暮らしをしてきたのだが、この度ひどく体調を崩し、どうにも心もとない有様となった。 私は旧友の窮状を見かね、此度の訪問となったのである。
最後に彼と会ったのは五年前、ちょうどこの屋敷が彼のものとなった折のことであった。 その頃にはまだ庭は心地よく整い、館にも手入れが行き届いていたように覚えている。 しかし、この五年間に何もかも変わってしまったようだった。 そうして一番変わってしまったのは他でもない、この館の主だったのである。
私が彼を一目見たときの驚き、これを何と言いあらわそう。 かつての快活で健康な面影は彼より消えうせ、朽木のように憔悴しきった姿がそこにあった。 たった五年、五年の間に人はかくも変わりうるものか! 百年の苦悩、百年の労苦、そんな試練に耐えぬいた後の変貌というのなら、或いは信ずることができたかもしれぬ。

これより私の松風館での生活が始まった。 しかしその滞在の間、何ともいえない不安が絶えず私の中にあったのである。 彼の変貌、館の荒廃、それらが私の心に影を落としたことは疑いようもない。 だが、そのこと以上に私の神経を脅かすものがあった。 それを明確な言葉にあらわすことはかなわぬ。 ただ、あえて言うならば、あの館をつつむ静けさはいかにも奇妙であった。 例えるならば、沢山の気配が息を殺し、じっと何かを伺っているような、 そんな何処か緊張を孕んだ沈黙である。
それは夜になると特に顕著で、私の眠りを妨げた。 この沈黙を破ってはならない。 そのことを本能的に感じ、自らの息遣い、自らの鼓動、そんなものにすら私はひどく怯えたのである。 しかし、そんな夜の沈黙も一時だけ破られることがあった。 夜半も大分まわって数少ない使用人たちも寝静まった頃、何者かがこの館を徘徊するのである。 部屋の前を通り過ぎてゆく足音を、私は夜ごと床のなかで聞いた。 そうして、そんなことが二晩続けて起こったのであった。
三晩目は流石に不審に思い、私は細くあけた扉の隙から廊下を覗いた。 すると、そこにいたのは誰あろう、彼であったのだ。 白い夜着は死衣のごとく痩せ衰えた体を包み、青い月明かりのなか歩む姿はさながら幽鬼であった。 私はかように恐ろしい光景を他に知らない。しかし同時に、あれほど胸の痛む光景も知らぬのである。 あたかも冷え切った死人が甦り、虚ろに彷徨うがごとき有様であった。 ただその双眸にのみ思い詰めた光を宿し、切々と何かを求めるようであった。

彼の状態は素人目にも尋常ではない。 そんな人間をこの館に住まわせておいてよいものか。 或いは、他ならぬこの館こそが彼の憔悴の元凶かもしれぬ。 私は彼に転居を勧めた。 しかし、彼は私の勧めに頑として応じないのである。
そうしてある晩、私の執拗な勧めに堪えかねたのか、彼は実に奇妙なことを語りだした。

「どうして僕がこの館に執着するのか、君の不審はいかにも尤もなことだ。
実際、僕もこの館が好きではなかった。 いや、好きではない、というよりも怖かったのだ。 君も気づいているだろうが、この館には何処か普通ではない雰囲気がある。 人が住みついて、まっとうな生活を送るべき場所とも思えない。
だから、当初はここを売り払ってしまおうと思っていたくらいだ。
その計画が狂ったのは忘れもしない、五年前のあの晩のことだ。 僕は今でも悔やむことがある。もしもあの晩、早めに床についていたら!
そうしたら、僕は今頃こんなことにはなっていなかったかもしれない。」

彼は両手に顔を埋め、まるで大いなる痛みに堪えるように身悶えた。 そうして、呻くように言った。

「ああ、しかし、そんな人生に一体どんな意味があったというのだろう!」

私は彼が顔を上げるのを待った。その時間は随分長いように感じられた。

「……五年前のあの晩のことを残らず君に話そう。 僕がこの館に執着する理由というのは、ひとえにあの晩の出来事にあるからだ。
あの晩、僕は書斎で遅くまで書きものをしていた。寝室に向かったときはもう十二時をまわっていただろうか。 この館は夜中を過ぎると、窓から差し込む月光くらいしか明かりになるものがない。 だからそれを見つけたときは、月明かりの見せた錯覚かと思った ……この館の二階、廊下の突き当たりに見慣れない扉があったのだ。
この館は決して小さくないけれど、僕は部屋数くらいは把握している。 僕の知る限り、そんなところに部屋などなかったはずだ。 当然、僕は驚き怪しんだ。 しかし、扉に触れるとそれは現実に存在している。 とりあえず、このままでは埒が明かないと思った。 だから僕は、扉を開けて中に入ってみることにしたのだ。

僕が扉の中で何を見たのか、それを十分に説明する自信はない。 しかし、ありのままを語るなら、僕は美しい絵を見たのだ…… 何処か分からぬが、暗い城壁の上に佇む女性が描かれている。 その女性は白い衣を纏って、まるで月そのもののように白く淡く輝いていた。
不思議なことに、彼女には顔がなかった。 本来顔のあるべき部分が真っ白に塗りつぶされて、まるでのっぺらぼうのようになっているのだ。 しかし、彼女は美しかった。理屈ではない、ひとめ見た瞬間から僕はそのことを理解した。 思うに、この世ならぬ美にとって、具体的な形象は不必要であるのだろう。 移ろい滅びゆく地上のものどもを、遥かな高みから超然と見下ろしている。 それが他ならぬ彼女だった。
やがて、僕は城壁のふもとの暗がりに描かれているものの存在に気がついた。 それは惨たらしく積み重なった人間の屍だった…… しかし、どうして彼女から逃れることができるだろう。 彼女を目にしたその時から、僕はまったく変わってしまったのだ。 すべての価値は一挙に没落し、あの月のごとき輝きのみが僕の真実となった。
そのときから、僕はもう一度あの部屋に辿りつくことだけを望んで生きている。 僕がこの館を離れられないのは、そういうわけなのだ。」

彼はそこまで熱心に語ると、大きく溜息をついた。 弱りきった彼の身体は、もはや少しの会話にも耐えることができないのだった。 しかし、彼の瞳は輝き、ものに憑かれたような熱を孕んでいた。 その有様はかつて見た、あの幽鬼のごとき姿を彷彿とさせるものであった。
私はたまらない焦燥を覚え、絞り出すように言った。

「……君はずっと、その彼女を探しているというのか」

彼はかすかに目を伏せた。 それは私の言葉を肯う仕草だった。

「それはきっとよくないことだよ。君はここを離れるべきだ。」

しかし彼は曖昧に微笑み、言った。

「……僕はきっと不幸なのだろう。 けれど同時に、これ以上の幸福も存在しないと思うのだ。」

***

彼が死んだのは、その半年後のことであった。 とうとう、私が友を救うことはかなわなかったのである。 しかし、望まぬ者に救いを与えることがいったい可能であるのだろうか。 彼を思うたび、後悔と共にそんな疑惑が去らぬのである。
彼は墓所に葬られ、その魂は主の御元に召されたという。 しかし、私のこの目には浮かぶのだ。 青白い幽霊となって、夜毎ひそやかに歩く彼の姿が。 あの大いなる秘密を隠した館を彷徨う姿が。 見つけることができるまで、それはきっと永遠に続くのだろう。

2005.11.17

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