海の底から



「不思議な話を知りませんか。」

私の一言に叔父は少し考え込むようなそぶりを見せて、一口コップの酒をあおった。

「不思議な話か。あるといえばあるし、ないといえばない。 でも、お前の好きそうなのならいくつか知ってるよ。」

酒の席のざわめきの中、遠く潮騒が聞こえてくる。 片隅でぽつりぽつりと語りだす叔父の声に私は耳を傾けた。

「おれの親父の話だから、お前にとってはじいさんの話になるな。 昔、じいさんがまだ若くて漁をしていたころのことだ。」

私は祖父の顔を思い出そうとした。 漁業を営む父の実家に私は毎年訪れている。 しかし、去年会ったはずの祖父の記憶は、もう大分おぼろげだった。

「ここの浜から沖に出て、それから西のほうへ少し行くと青島というところがある。 地元ではよくない場所だといわれていて、ここらの漁師はみんな嫌がった。
だけど、じいさんだけはよく船を泊めていた。 不吉な場所だろうとなんだろうと、いい漁場であることは確かだったからだ。
その頃、じいさんはそこで夜通し魚をとって、明け方帰ってくるということがよくあった。」

叔父はふうと息をつき、昔に思いをはせるような表情で部屋の一角に目をやった。 つられて私もそちらを見ると蛾が一匹、灯火に纏わりついてもがいている。

「ある日、じいさんは夜通し魚をとって、さて帰ろうと碇を引き上げた。 ところが、いくら引いても碇はちっとも上がってこない。 様子が変だというんで、じいさんは海に潜ってみることにした。 碇が何かに引っかかっていたら、外してやらなきゃならないからな。
そうしていざ海に入ってみると、じいさんはすぐに気がついた。 碇の上にばあさんがひとり座っているんだ。 朽木みたいに痩せていて、真っ白な髪のばあさんだったというよ。 暗い海の中だっていうのに、不思議とはっきり見えたらしい。
そのばあさんは、潜ってきたじいさんに目を向けた。 そうして、じいさんに言ったんだ。

『ここで私にあったことを――誰にも、話してはならない』

海の中だというのに、確かにそう聞こえたそうだ。
ばあさんは言い終わると碇から飛び降りた。 それで、すぐに真っ暗な海の底へ消えてしまったんだって。」

訥々と語り終えるや叔父は物思いにふけるように黙ってしまった。 酒宴のざわめきは今や遠く、潮騒がいっそうくっきりと聞こえてくる。 間を取り繕うように私は言った。

「それにしても、おじいちゃんは約束を守らなかったんですか。 誰にも言うなといわれたことを、叔父さんが知っているだなんて。」

叔父はしばらくの間悩ましげに私を見やり、なぜだかひどく物思わしげな様子で言葉を継いだ。

「守っていたよ。何十年間もじいさんはずっとそのことを黙っていた。それに、青島には二度と近づかなかった。
でも、去年に飯沼の娘のことがあってね。」

「飯沼の娘のことって?」

私は歯切れの悪い叔父の言葉を促した。 もしかして、言いにくいことなのだろうかと思いつつも、好奇心には勝てなかったのだ。 叔父は少し躊躇うようにしたが、結局話を続けることにしたらしい。

「…あれは四年前のことだったと思うが、飯沼の娘は海に出かけていた。 小船で少し沖に出て、素潜りで貝をとっていたんだ。それで、ふと気がつくと海中に見知らぬ娘がいる。 ここは田舎だから、知らない人間に会うことなんてめったにないんだけどね。
その娘は飯沼の娘と同じように貝をとっていた。 そうして、見たこともないくらい立派な貝を飯沼の娘の方に差し出してくるんだ。 飯沼の娘は貝を受け取ろうと、思わずその娘に近づいていった。 ところが近づくにつれ、その娘が深い淵の上で手招いていることに気がついたんだ。
飯沼の娘もさすがにこれはおかしいと思った。 それで一旦海面に出てみると、辺りには自分の乗ってきた小船一艘きりしかない。 さっきの娘が乗って来たはずの船がどこにも見当たらないのだ。
飯沼の娘は船の上でしばらく考え込んだ。それで、意を決してもう一度潜ってみることにした。 もしかしたら、さっきの娘は自分の幻覚かもしれないと思ったんだね。
でも、潜ってみると海の中にはやっぱりさっきの娘がいた。 そうして、相変わらず飯沼の娘を手招いているのだ。
結局、飯沼の娘は逃げ出した。真っ青になって逃げ帰って、以来二度と海に出ようとはしなかった。 飯沼の親父はたいそう怒ったようだが、それでも頑としてきかなかったのだ。」

叔父は一旦ここで言葉を切った。そうして私が見守るなか、また少し考えるような素振りを見せて徐に話を再開した。

「ところが、去年のことだ。ある日、どういうわけか飯沼の娘が海に出ると言い出したんだ。 家族は喜んで送り出してやったが、飯沼の娘はそれっきり戻ってはこなかった。 海に呑まれて死体すらあがってこなかったんだ。
それで、仕方なく枕を形代にして葬式をあげたんだが、その席でのことだった。 何を思ったか、じいさんが例のことをおれに話したんだ。」

叔父はじっと手にしたコップを覗き込んでいた。 水面に映る自分の顔に、何かを見出そうとでもしているかのようだった。

「…それが去年のことで、今年になってじいさんは死んだ。」

私は祭壇の遺影をもう一度見上げてみた。やはり、祖父がどこか見知らぬ人のような顔で写っている。 その下で、先ほどの蛾はもう動かなくなっていた。蝋燭の炎に誘われて焼け死んだ蛾が、いかにも哀れだと思った。
そうして、打ち寄せる波の音を幾度か聞いた後、叔父がひとことぽつりと言った。

「でもおれは、じいさんや飯沼の娘の気持ちが分かるような気もするよ。 夜の海岸に立つと、真っ暗な沖合いから誰かが呼ぶ声がするんだ。 だから、おれは夜の海が怖くてたまらないのだけど、いつか、おれはその呼び声に応えてしまうような気もするんだ。」

波が、打ち寄せている。

「……ともあれ飯沼の娘もじいさんも、さてどこへ連れて行かれたのやら。」

2004.8.25

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