蜻蛉供養



うっそうとした山道を頂にまで登り詰めると、そこで一息に景色が開け、白い砂浜に縁取られた青い湖が姿を現すのです。 それはあたかも魔法のような唐突さです。 私はぶらぶらと砂浜を突っ切り波が寄せる際まで行って、何をするでもなくただぼんやりしながら過ごすのです。

そこはまったくこの世のものとも思えない場所です。湖の対岸からは絶えることなく風が吹き寄せ、湖面を波立たせてゆきます。 その縹渺と吹き抜ける風と、さぷさぷと打ち寄せる波の他、辺りは全くの静寂に閉ざされているのです。
足下の白い砂は微細に砕いた硝子のようであり、或いは、漂白された骨のようでもあり、 どんな植物が萌え出でることもありません。
それから、あの湖。まるで鉱石を溶かし込んだような青は、ちょっと過ぎるほどの鮮やかさです。
聞けば、ここいら一帯の大地は硫黄を含んでいるということで、鉱石を溶かし込んだような青、という比喩もあながち間違いではないのかもしれません。 その証拠に、この広々とした湖水にはどんな魚も棲まうことはできないのです。
この場所においては、風の色、光の色さえ他とは違っているように思われます。 風はあくまで透き通り、いっそそっけないほどの無機質さで広い山頂を吹き渡ってゆきます。 そんな中、ひどく純粋な光は水晶のように確かな質感をもって、かっきりとした黒い影を白い大地に刻むのです。

まったく、これほど聖域という名に相応しい場所を私は他に知りません。 生命を育まない水と大地はぞっとするほどの寂寞で訪れるものの胸を打ち、 その荒涼たる気が人の心身をいっぱいに満たしてゆきます。 生命特有の熱気と猥雑さはきっぱりと拒絶され、 ただ硬く美しく、変わることのないものだけがこの場を支配するのです。
地元の人間はここを浄土ヶ浜と呼びます。 この湖畔に集うた死者たちがやがて湖水を越え往きて、彼岸の浄土に至るという、土俗の伝承からの呼称です。 いかにも、この聖域に似つかわしい話だとは思いませんか。 ここは生者のためというよりは、死者のためにこそ相応しい場所なのですから。

夏が過ぎ、秋の訪れを感じはじめた頃から、湖畔の白い砂の上を無数の蜻蛉が群れ飛ぶようになりました。 私は何をするということもなく、日がな一日ただぼんやりとその有様を眺めております。 そうしてふと気を抜くと、自らの魂までもがあこがれ出でて、あの軽やかな虫たちと共に白い湖畔を彷徨うてゆくような、 そんな不可思議な幻想に囚われているのです。
これら小さき虫たちの日に透ける羽はあまりに薄く軽く、風の吹き渡る湖水を飛び越えるにはひどく頼りないもののように思われます。 浄土の対岸に辿り着いたというのにそこから先へ進むことも叶わず、かの虫たちはこの湖畔に迷っているのでしょうか。

この頃は私の破れ屋に身をおいて、雑然たる物事に囲まれている時ですら、深々とあの寂寞が身を浸すのを感じます。 ことによると、真実の私は今なおあの浜辺にいるのかもしれません。
それならば、私の躯はあの白砂のほんの一握となり果てて、繰り返し繰り返し我が身を洗う美しい青い波をじっと感じているのでしょうか。 また或いは、寄る辺のない私の魂はあの小さな虫に化身して、透徹とした光と風に独りぼっちの我が身を置いているのでしょうか。
どちらも真実らしく思われ、どちらも真実ではないように思われます。しかし、こんな幻想は時に酷く現実味を帯びてくるのです。
そうして私は夢想します。
やがて、あの白い湖畔に何か美しい存在が訪れて、色とりどりの花びらを撒き散らしてゆくのです。 その花びらに乗ってこそ、あの儚い虫たちは彼岸の浄土へ行き着くことができるでしょう。
宵闇の静寂の中で、或いは白昼の沈黙の中で、何よりもそんな刻が来ることを、私は夢みているのです。

2005.9.16

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