ストーリーテラー



その日、彼は秋枯れの丘をそぞろ歩いていた。実りの時はとうに過ぎ、緩やかな滅びのいよいよ深まってゆく時分である。 木々の葉は色付き、あるいは枯れ落ち、裸の枝振りばかりが目に付くようになっている。 見上げれば、快晴の空はどこまでも高く広く、無機質なほど透明な風が縹渺と吹き渡ってゆく。
彼はくしゃりと顔をゆがめた。そうすると、彼の顔はまるで困っているような、眩しがっているような、それでいて嬉しがっているような、何とも言えない表情になる。 彼の目は白く濁っていたが、はたして盲人であるのかどうかは疑問であった。 なぜなら、彼ほど巧みにきらめく色彩を詠いだす人間は他になかったからである。

***

彼は詩人であった。それも、人の持ちうる限りで最高の詩才を持った詩人であった。 後世、彼の詩を読んだある作家は感嘆のあまりこう叫んだという。 ”この詩を読みたまえ、この詩を読むまでは、花盛りの野辺の本当の色彩、本当の美しさ、そんなものたちを、この私は何一つ理解していなかったのだ”と。
彼はまた、他に類を見ないほど謎に満ちた人物であった。その素性はおろか、本名ですら一人として知る者がいない。 誰も彼の正体を知らず、彼がどこから来たのかも知らなかった。 ただ、偉大な詩人が優れた魔術師と同義であった時代の常として、彼については多くの伝説的な逸話が残されている。

例えばある時、”丘の人たち”が王の結婚式に彼を招いた。 宴の席で彼に祝福の言葉を求めようと考えたのである。 しかし、彼は”丘の人たち”の頼みを聞き入れなかった。 というのも、彼はひどく気紛れであり、気の向かない限り決して詩を詠うことがなかったからだ。 そうして、例え”丘の人たち”であろうと、彼に強要することは不可能だった。
そこで”丘の人たち”は、彼の言葉の一言一言に対し、金貨を一枚ずつ支払おうと申し出た。 彼はこの提案を気にも留めなかった。 次いで、彼の言葉の一言一言に対し、地下の秘宝、炎を宿す宝石を一粒ずつ与えようと申し出た。 しかし、この提案ですら彼の気には入らなかった。
最後に、彼の言葉の一言一言に対し、りんどうの花を一本ずつ、彼の赴く先々に毎年かならず咲かせようと申し出た。 この提案がようやく彼の心を掴んだ。りんどうは彼のことさら愛する花だったのである。 彼は”丘の人たち”の願いを聞き入れ、彼らの王のために見事な祝福の詩を詠った。

***

彼の行く手にりんどうが一群れ咲いていた。 澄み渡った陽光がごく静かに降り注ぎ、青い花びらはますます鮮やかである。
彼はゆるゆると歩を進めた。行く当ては特にない。ただ足のおもむくままに歩き、時に木陰で夜露をしのぐ。 そんな気ままな生活を、彼はもう何十年も送っていたのである。
長い長い旅のなかで、彼はこの世のありとあらゆること見聞きした。 そこに彼の心を動かすようなことがあれば、すぐさま威力ある言葉を紡ぎ、素晴らしい詩を詠い出した。
彼にとって、詩を詠うことは呼吸するよりもっと自然なことだった。 彼に詠えないことはこの世の中に一つとして存在せず、奥深い神秘ですら自由自在に開示した。 まったく、彼は偉大な詩人であった。

ふと、近くで鳥が甲高く鳴いた。次いで何かが羽ばたくようであった。 彼が何気無くそちらをみやると、ちょうど背の高い女が歩み去ってゆく。 女は青い衣を身に纏い、今まさに秋空から降り立ったかのような風情であった。
彼が見たのは女の後姿のみであり、それも一瞬のことであった。しかし、彼の心を奪い去るには、それだけで十分だったのである。
”とても言葉の及ぶところではない”
そう呟くと、以来、彼は詠うことを止めてしまった。

***

彼は一体、何に出会ってしまったのだろうか。 彼を誑かすために性悪な悪魔が現れたのか。 あるいは、遊行する天の女王に偶然行き逢ったのか。 結局、真相は永遠の謎である。

やがて季節は冬を迎え、凍てついた星々が空一面に現れるようになった。 木々の梢は冴えた光に凍りつき、まるで銀貨のように鈍く光を弾き返している。
しかし、そんな光景も最早彼の心を捕えることはなかった。 時に、彼に顧みられないことを恨み嘆くように風が泣き咽いだが、彼の心はただ一つのことだけに囚われていた。
彼はまったく絶望的な恋をしていたのである。 偉大な詩人は今や完全に沈黙し、一瞬垣間見た女の面影を探し求めるばかりであった。
彼は荒野を行き、森を渡った。 途中いくつかの山を越えた。やがてたどり着いたのは、国の最北、荒涼たる不毛の大地であった。

***

その日、彼は黒湖という湖にさしかかった。 朝日が昇ってまだ間もない刻限である。冬空は薄く凍りつき、山の稜線が鋭く際立っている。 そうしてきんと冷えきった空気の中、岸辺を洗う波音だけが静かに静かに響いていた。
水辺に寄れば、その湖水は驚くほど透明であり、水の中をずっと見通せるほどである。 そしてまた、この湖は恐ろしいほど深いのだった。 覗き込めば暗い深淵がただ果てもなく続き、まるで底がないように見える。
彼は湖畔に佇んだ。 頭上はるかな空を映し出す湖面の奥に、果てのない暗闇がじっと横たわっている。 そこに映りこむ彼の姿は、ひどく疲れきった、一人のみすぼらしい乞食であった。
いまだかつて、彼はその詩才の他に何かを所有したことはなかった。 それでも、彼の心は常に喜びに満たされ、常に自由だったのである。 しかし、今やあの喜びは彼から過ぎ去り、ただ渇望の苦しみにのみ囚われている。 湖面に映る彼の顔はもう長いこと笑顔を忘れてしまったようだった。

それからどれほどの時が経っただろう。ふいに、覗き込む湖面を何かが横切った。 上空を鳥が行ったのだろうか。それとも、暗い淵を魚が渡ったのだろうか。 まるで見分けがつかない、わずか一瞬の出来事である。 しかし、彼にとってはそれだけで十分だった。
静寂の中、かすかな水音が響いた。それが彼の最期であった。 この偉大な詩人は湖に呑まれ、この世から永久に去ったのである。

***

そうしていつしか、黒湖の畔にはりんどうがいっぱいに咲き群れるようになった、という。

2004.12.6

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