帰還



空が広い。 風の渡る音に混じって波音が響いてくる。

(……れは灯台です。一万年も昔にここで暮らしていた人たちがこんなに見事なものを造ったのです。
森の向こうに海があるでしょう。あすこで漁をする人たちが無事に帰ってこられるよう火を灯したのです。)

男は振り仰ぐと眩しげに目を細めた。
目の前に巨大な木柱がそびえている。 大人三人がかりでも抱えきれそうにないほど太い。 それが全部で六本、均等な間隔で二列に並んでいる。 隣の男にならって柱を仰ぎ見ると、高さは三階建てのビルほどもあった。 その天辺には広く板が渡してあって、その上で火を灯すのだという。

(僕の生まれは小さな漁村でしたが、暗くなって時化てきたのに海から人が帰ってこないことが時々ありました。 そんなときは海を見渡せる高台で焚き火をいくつも焚いたのです。
真っ暗闇のなかで方向を見失った漁師が、どうかこの火を目当てに帰ってこられるといい。 暗い海の方を必死で見つめながらそう祈っていたのです。 一万年前の人たちも、おそらくはそんな風にしてここに火を灯したのでしょう。)

波の音にのって緩やかに声が流れた。 穏やかでありながら、どこか熱のこもった口ぶりだった。 男の風貌もそのように思わせる一因なのかもしれない。 教師然とした物腰のなかに、少年のような眼差しがひどく印象的であった。
さて、この男は誰だっただろう。 私はぼんやりと考えた。 今までだって幾たびそう考えたか分からない。 疑問とも言えないような、薄ぼんやりとした思いである。 それが気紛れに現われては、形を取る間もなく吹き散らされてゆく。

(勿論、ここにある柱は複製でしょう。一万年も前のものがこんなに綺麗に残っているわけはありません。
ずっと昔に僕がここを発掘したときは、六つの大きな穴の跡、それに、柱の欠片が僅かに残っているばかりでした。)

男の声は遠くの方から聞こえてきて、どうやら私に話しかけているらしい。 けれども、自分が彼と会話しているのだという、そんな実感はまるで薄かった。
スクリーンごしに見る映像のように彼は遠い。 ただ吹き渡る風の音、それだけが確かな現実味を帯びて耳元に迫ってきた。

(ここの調査を途中で止めてしまったのは、実際ほんとうに心残りでした。 ひとえに時代が悪かったのです。仲間たちは次々にいなくなってしまうし、僕もとうとう南方へ行くことになって……)

男はゆったりと海の方へ歩みだした。 その背中に私はごく自然につき従った。 徐々に森が近くなる。右手にお椀を伏せたような形をした茅葺の建物が見える。
あれは一万年前の住居を再現したものだ。 さっきこの男がひどく楽しげに話してくれたから、私はそのことを知っている。 彼の言葉は鮮やかに過去を甦らせて、まるで魔法のようだと思ったのだ。 それなのにどうしてだろう。私の記憶はもうずいぶんと曖昧で、ついさっきのことすら夢の中の出来事のように感じられる。
風の渡る音がして、波音が響いている。男の声が緩やかに流れてくる。

(……海といえば、ご存知ですか。 南方の海というのは本当に綺麗なもので、 ずっと深い所まではっきり見通せるほど水が澄んでいるのです。 僕は船で南方に向かったので、そんな海の上を何日もかけて旅しました。
しかし、いくらでも見通せるというのに、決して底には行きつかない。 そんな果てのない青は見つめていると恐ろしいような気持ちになります。)

男が空を仰ぐ。広々とした空は淡い色に白い雲を散らしている。

(海だけでなく、空もまた恐ろしいほど青かったのです。 まるで瑠璃を溶かし込んだように、深く鮮やかな色合いをしていました。 それだから船の上にいると、空と海の境が溶けあって地平の果てまで青く青く見えたのです。
そんなふうに青に閉ざされた風景は、この上なく美しいものでした。しかし、それだけにいっそう悪夢めいてもいたのです。 地獄というものがあるのなら、まさしくこんなところに違いない。僕にはそう思われました。)

目の前に森が迫っている。 青々と茂った木々はいかにも涼しげな影を落としていた。 吹き抜ける風からは、ひやりと湿った草の匂いがする。 そういえば、今日はひどく暑かったのだ。私は今更そんなことに気がついた。
辺りには夏の光が満ち満ちて、白く鮮烈に照らしだされている。 それなのに、何もかもが奇妙に曖昧で遠いのだった。 空を渡る風の音は耳元で聞こえるのに、波音も男の声もひどく遠い。
男は振り返った。そしてしみじみと、まるで噛み締めるように灯台を眺めた。 もう大分遠くなったそれは、セピア色の木肌を夏の日差しに晒している。
男はほっとため息をついた。

(船はとうとう何処にもたどりつくことがありませんでした。 だから、僕はあの青いばかりの場所から、本当に長いあいだ帰ってくることができなかったのです……)

***

「……ですか、大丈夫ですか」

顔を上げると、若い女性が心配そうに私を覗き込んでいた。 胸元に「山内」と書かれた名札が見える。 どうやら、遺跡に併設された博物館の職員であるらしい。
私は何でもないんです、と呟いて立ち上がった。 一瞬、視界が真っ白になって頭の奥がすうっと冷える。 立ち眩んだのを誤魔化すように空を仰ぐと、もう夕暮れの気配が近づいていた。

「今日は暑かったから、熱中症で倒れるお客さんもいたんです。すっと座り込んでいるから心配しました。」

山内はほっとしたように笑った。彼女の背景に灯台が見える。 薄闇に包まれたその周囲には、たくさん人が集まっていて、かすかなざわめきがここまで聞こえてきた。

「もうすぐ灯台に火を灯すんですよ。よかったら見に行かれませんか。」

火を灯すのか。あの灯台に。
私の脳裏に四方八方を一色に塗りつぶされた風景が浮かんだ。 その中に一つの火が灯る。 それは、ここに帰って来いと呼びかける光だ。 道を失った者にとって、それはどんなに頼もしく、どんなに慕わしく感じられたことだろう。

「今年の催し物で、昔の灯台の使われ方を再現してみようということになったんです。 昨日から始まって明日まで三日間続くんですけど。」

私たちは森を後にして緩やかな坂を上った。 左手に茅葺の住居が点在している。
ざわめきはますます近くなった。

あとで海から灯台を眺めるのもいいかもしれない。
ふと思いついてそう言うと、山内は一瞬怪訝な顔をして、それから思い当たったように頷いた。

「ああ、森の向こうの。よくご存知ですね。今でもあそこを掘ると魚の骨が出てくるんですよ。」

空の高いところで風の吹き渡る音がする。 ざわめきが近い。

「……一万年前は気温が高かったから、海岸線があそこまで来ていたんですね。 今では高津の方まで一時間かけて行かないと、海は見られないんですが。」

私は遠い森を振り返った。 それはただ薄闇に佇んで、ひっそりと静まりかえっている。
波の音はもうどこからも聞こえなかった。



2005.7.18

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