影の患い



あのひとが死んだという。 もう一月も前のことだという。
行き逢った古い友人がふと漏らしたのを聞いて、私はようようそのことを知った。 あのひととはもう何十年も会うことが無かったし、手紙のやり取りも絶えていたのだから、 訃報が私に届かなくとも仕方の無いことだろう。 旧友に偶然出会わなければ、私はあのひとの死を知らずじまいだったかもしれぬ。

…死んで、しまったか。

懐かしい人がふいに逝ってしまうことが近頃増えてきたようだ。 もう、私も若くはない。人生を四季に例えるならば丁度冬の深まってゆく時節か。 ゆるゆると死に向かう下り坂のその最中。

世は春を迎え、きらめくような陽光がそこら中に満ち溢れている。
五月、皐月。
聞くに、皐月の皐の字はされこうべを表すのだとか。 野辺に打ち捨てられた屍が、醜く腐って崩おれて、 醜悪な姿を長くさらしたその果てに、白い白い骨になる。 その驚くような白さ、輝くようなうつくしさ。
皐月。
されこうべのように美しい季節。木々は輝く緑を纏い、その瑞々しさは溢れるようで。 私は一年の内この季節がいっとう好きだ。だって、まるで宝石のようだと思わないか。 風ですらあくまでも美しく美しく光り輝いているのだから。

こんな季節は若い人間に相応しい。

ほら、例えばここの乳母車の中。ふくふくした頬の赤ん坊はどうだ。もみじのようなちいさな手でずっと蝶々を追っている。
あの蝶は…なんという種類だろう。艶やかに黒くて羽が大きい。 燦燦と日を浴びるつつじの群れと、赤ん坊の手のひらをひらりひらり行き来しているのだ。
それにしても赤ん坊の手のひら、あんなにちいさいのにちゃんと指が五本ある。 そのことがひどく不思議だ…そう思わないか。あのちいさないきものが、これから立派な人間になってゆくなんて。

それからそこ、通りの向こう。滴るような緑の下駆け回る子供らはどうだ。 なんとまあ、ひどく楽しげじゃないか。まるで溢れかえるような元気だ。 あの子らが住むのは、ある意味で楽園。まだ生命の終りが見えていない、ただ駆け上って行く途上。
命に限りがあるなんて、思ってもいやしない。ただ永遠に永遠に、何度だって四季を巡ることができると。 そんなことを、ただ無邪気に信じているのだ。あの、子供らは。
それはまるで、惜しげもなく宝石を撒き散らすことにも似て。 いくらでもあたりまえに其処にある時はまるで惜しくもなく、 けれど底が見えてようやっとその稀少さに気づく。まあ、人生は概してそんなものなのだが。

私は。
残り時間の少ない私は、この光り輝く季節をただ大切に大切に、慈しむように過ごしている。 なんといっても、この季節に逢うことのできる残り回数を数えたら、多分両の手で十分のはず。 もったいないと思っても無理は無いだろう?

…ああ、ほらあそこ。私の前を連れ立って歩いている、長い髪の娘さんと広い背中の若者。 何時の間にあそこにいたのだろう。いかにも初々しい恋人同士じゃあないか。お互いの指先に触れることすら躊躇いがちだ。
初恋…かな。きっとそうだろうな。私にもあんな時があった。もう何十年前のことだろうか。 あのひとと共にいた日々は、皐月のこの季節を思わせる。 ただ輝かしく美しく、そうして滴るほどの新緑のようで。たった一時、ほんの数ヶ月間だけの瑞々しいきらめきのようで。
さっきの蝶々が娘さんの髪にひらり泊ると、若者がそっと髪へと手を伸ばし、照れたように笑う…その、横顔。
その、横顔が……



嗚呼。



なんということだ。
……なんということだろう。

私、じゃあないか。あの、生真面目な目をした青年は。



なんということだろう。
あのひとと手を繋いだ私は、ただひたすら幸せに幸せに。
きらめくような光の中を何処までも何処までも。

…なんということだろう。
やがて輝く緑の森へ。永遠の春へ。

往ってしまった。

……往って、しまったのだ。

2004.5.1

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