人魂のさ青なる君を



夫が死んでから、もうひと月以上がたった。

遺品の整理を、しなければならないのだろう。独りではどうしたって使わないような物が沢山置いてあるし、 もう二度と使わない日用品を放置しておくのもよくないのだから。
そう、頭では分かっているのだ。分かっているのだけれど、どうにも気持ちがついて行かない。
今日も、いい加減家を片付けようと思っていたけど、結局なにもできなかった。 だって、この家の中にはまだ夫の気配さえ色濃く残っているのだ。夫がいなくなる前とどこも変わっていない。 夫にしても、あるいはこのまま、何事も無く帰ってくるんじゃないか。 そんな非合理なことをつい信じたくなってしまうくらいだ。
本当のところ、私はこの空間を壊したくないと思っている。できることなら、夫が生きていた日常の空気を 永遠に留めて置いて、ずっとその中で暮らしていたい。そうでないと、寂しすぎるのだ。
「この家は独りで住むには大きすぎるから、いっそ引き払って便利のいい場所に移ればどうか」なんて。 無神経な親戚は言うけれど、そんなこと、絶対にできるはずがない。
夫の持ち物だった品々を見ると、時折泣きたいくらいに切ないけれど、 それでもやっぱり、片付けるなんてできやしないのだ。
今日はもう寝てしまおう。そう思って、私は居間を出た。独りきりの家の中はとても静かで逆に落ち着けない。 さっきまでは、おもしろくもないテレビをつけて紛らわしていたのだが、それも消してしまうと耳が痛いほどの静寂だ。 こんな時は寂しくて仕方が無くなるに決まっている。だから、そうなる前に寝てしまったほうがいい。

廊下に出ると、暗がりは密やかな気配に包まれていた。今まで全然気がつかなかったのだが、 どうやら雨が降っているらしい。廊下の窓から覗いてみると、暗闇に木々だけがひっそりと雨を受け止めている。 私はそれを見てしまった。見たら、どうにも堪らなくなって、傘も持たずに外へ出た。
庭はとても静かだった。雨粒が宙を切って、土に落ちる音がやけにはっきりと聞こえる。 木々は私の知らない言葉で何事かを話し合っていた。音を立ててはいけない気がして、 息を潜めて歩き出すと、濡れた土の感触がふわふわとひどく頼りない。 時折、眼の前を落ちてゆく細い雨粒は朧な光を纏った。
こんな晩は時間だってきっと狂う。何の気なしにそんなことを考えた。 ここにいると、絵の中に迷い込んだような気分になってくる。 まるで、暗い庭先に糸のような雨が降っている一枚の絵の中だ。 それなら雨は永遠に止まないし、夜明けは二度とやってこない。
この場所にずっといて、いっそ溶け込んでしまおうか。それはとても良い考えだ。 だって、このひどく優しい暗がりにいれば、もう二度と朝は来ない。朝が来なければ、 私は独りで先へ進まなくてもよいのだ。

どこからか梔子の香りがする。辺りには、とろりと濃度を持ったなんとも香りのよい闇だ。 私は手頃な木の下に座り込んで、膝を抱えて丸くなった。そうして、きつく目を閉じた。 このままこの咽そうな空気に溶けてしまえばよい。そんなふうに思って、そろそろと息を吸い、 またそろそろと息を吐く。そんなことを何回繰り返したか知れない。
しかし、どうにも呼吸の音が耳障りだ。 ここにあっていいのは、この静かな雨の音と、木々のさざめきだけだというのに。
何とかしてこの闇に溶け込んでしまおう。私はますます硬く身を縮め、ますますきつく目を閉じた。 できる限り息も殺した。そんなふうにして、ずっとじっとしていると、なんだかぼうとした心持になってくる。
……もう、大丈夫だろうか。
そう思ってそっと目を開けてみると、目の前には膝を抱える腕が薄闇にぼうと浮かび上がっている。 私の体は全てがほの暗く曖昧な中、いやにくっきりとした輪郭を保っていた。
ああ、まだだめだ。私はひどく落胆して、しばらく自分の手足を眺めていた。

それからどれくらい雨の音を聞いていただろう。 ふと、誰かに呼ばれたような気がして顔を上げると、中空に真っ青に光るものがある。 まるで火のようだけれど、燃えることも消えることもない。 辺りを包む細い雨の燐光が集まって、凝って現われでたのだろうか。 いかにも自然な様子で、朧な空間に溶け込んでいる。
私はその光をまじまじと見詰めてみた。不思議と怖くはない。 それどころか、この光はひどくやさしくて懐かしい感じがする。こうして光の側にいると、なんだかとても安らげるのだ。
できればずっと、こうしていたい。私は心底そう思った。 柔らかな止まない雨と、香りのよい常闇とに包まれて。 この、懐かしくやさしい光の側で、永遠にまどろんでいるのだ。 ここならちっとも寂しくないし、苦しいことや悲しいことは何一つないのだから。 今さら、あの独りぼっちの家になんて絶対に帰りたくない。
私は青い光の側で、ひどく幸せな気分だった。 夫が死んでしまってから、こんなに満ちたりたことはついぞなかった。 つ、と青い光が目の前に降りてくる。私は本当に何気なく、その光に触れようとした。

青い光に差し伸べた手は、するりと虚しく空を掻いた。 私の手は、決して、青い光に触れることができなかった。
そうして私は唐突に気づいた。
私は、この空間では、どうしようもないほどに異質だ。
ここがどんなにやさしくても、ここがどんなに懐かしくても、 私は決して溶け込めない。
……そのことが分かったとたん、明けの鴉が一声鳴いた。

***

気がつくと、私は独りで庭木の根元に座り込んでいた。 もはや雨は降っておらず、木々は一言も喋らない。 そうして、庭には朝日がいっぱいに差し込んでいる。それは飽きるほど見知ったいつもの風景だった。
……ああ、帰ってきてしまった。私はまた、朝の来る場所へ帰って来てしまったのだ。
きっとまた、寂しくて寂しくてどうしようもなくなるに決まっている。
でも、それはきっと仕方のないこと、なのだろう。だって、私はまだ生きているのだし、 これからも生きてゆくのだから。だから、どうしたって先に進まずにはいられないのだ。
何年先のことになるのかは分からないけれど。いつか命が燃え尽きて、燃えることも消えることもない青白い核が現れたなら。 その時こそ、きっとあの絵の中の場所へ、還ることができるのだろう。

私は死んでしまった人たちを、置き去りにしてゆかねばならない。
生きてゆくとは、つまりはそういうことなのだ。



----さようなら。
私はその時、はじめて泣いた。

2004.1.1

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