幻視者



さんごうさんという人がいる。
私の子供の時分、母親はしょっちゅうこの人の名でもってだだをこねる私を脅したりすかしたりしたものだ。 さんごうさんがくるよ、といった具合にやられると、大抵の場合私はおとなしくなったものである。
どこの誰とも素性はようとして知れない。ただ名前のみが明らかである。しかしながら、私はさんごうさんについて割合と多くのことを知っていたように思う。 例えば、さんごうさんはおそろしくのっぽで、いつも黒い外套を着ている。そうして、大きな袋をしょっている。 この袋の中に拐った子供を入れて、どこか遠くへ連れて行くのである。

この頃、実際に子供がいなくなる事があって、私などはそれをさんごうさんの仕業と信じて疑わなかった。 いなくなったのは私の幼馴染みのみつという娘である。みつは随分おとなしい気性で、まるで日本人形のような娘だった。 他方、私は子猿とあだ名されるほどかまびすしい子供であったのだが、どうしたものかみつとは仲が良かった。
その日もみつと夕暮れ時まで遊び回っていたように覚えている。ちょうど冬に向かう時節で、日が落ちるのも随分早くなっていた頃であった。 空は大方闇色に染まり、ただ西の山際にのみ気味の悪い赤が残っている。 辺りに人は影もない。そんな中、私はみつと三叉路で別れ、各々帰路についたのであった。
みつと別れて一人になると、薄闇がひしひしと身に迫ってくる。 横手では葉を落とした木々が様々に身をよじり、不気味な影となって立ちはだかっている。 私はどうにも恐ろしくなって、せめて犬の子一匹なりとも、生きているものに出会わないかしらんと、それだけを願いつつ、ほとんど小走りになって急いだのである。
と、前方左手の細い路地よりまるで唐突に現れた人があった。 黒い外套を着たのっぽの男である。その人はなんだか急いでいる様子で私と擦れ違い、そのまま薄暗い道に消えていった。 通りざまにふと男の出てきた路地を覗いてみれば、細長い路地の奥は闇に呑みこまれてまるで見えない。 その時になって、私は先の人がひどく怖いものであったように思えてきた。 暗い路地はどこまでも奥深く、ともすれば引き込まれそうである。私は慌てて踵を返すと、あとは一目散に逃げ出した。

その夜半に私はみつの失踪を知った。どうやら、私と別れたきり行方が知れぬようになったらしい。 私はすぐさま夕刻行き逢った人を思い出した。そうして、かの人が実はさんごうさんであったことを確信したのである。
翌日から大掛りな捜索が始まったが、私にはどうにも無駄に思えてならなかった。みつはもう遠くへ行ってしまったのだから、この辺りを探しても見つかるわけがない。 大人たちを尻目に私はみつの行方を夢想した。畏怖と仄かな憧れをもって、みつの連れて行かれた世界を思った。 恐ろしくもひどく美しい光景を私はいつだって思い描いていたように思う。
例えば山のむこうには、曖昧な橙色の光線のもとでとりどりの花が咲き乱れているような、そんな不可思議な場所がある。 そこでみつは、拐われた他の子供たちと共に暮らしているのだ。時折さんごうさんがやってきて、子供たちの血を絞る。 さんごうさんは子供の血で夕焼けを赤くそめるのである…
夕焼けがとりわけ美しい日に私はみつのことを考えた。 そうして、今から何年もして私が大人になってしまった頃に、ふと子供のままのみつに出会うようなことがないだろうかと未来のことに思いを馳た。

結局、その後何年もみつは見つからなかった。 私はその間着実に成長を続け、世の様々な理を学ぶにつれ他愛なくお化けを信じることはもうなくなっていた。
それでも、みつに纏わる思い出だけは胸のうちでそれはそれは大切にとっておいたのだと思う。 時折、私は懐かしく美しく、そうして不可思議なあの思い出を、そっと取り出しては慈しむように眺めるのだった。 そんなふうにして時に磨かれるうち、みつの思い出は黄昏そのもののような美しい物語へと仕上がっていったのである。



ある夏の盛りのことであった。
目を焼くほどに発光する照り返しの白い道を、私は友人と共にのろのろと歩んでいた。 辺りはうだるような熱気に閉ざされていて、音をたてるものも身じろぎするものも一つとして存在しない。
現実から薄皮で隔てられたような空間を声も無く進むうちに、私はふと太陽が先ほどから全く動いていないことに気が付いた。 静止した悪夢を果てしもなく見るような、そんな錯覚にだんだん捕われ始めたちょうどその時のことである。 行く手へ唐突に一群の人だかりが現れた。
そこで私は夢から覚めたようになって、いぶかしく思いつつ、がやがやとした喧騒の方へ歩み寄ったのである。

雑多な人々は溜池を囲むようにして群れているらしかった。 人の隙間から覗きこむと、ある程度大きなはずの池がなかば干上がったようになっている。
岸から中心部にかけては、剥き出しになった泥がひび割れを起こし、その上に藻やらごみやらがごちゃごちゃと積もっている。 その中に混じって、干し上げられて腐った魚が気持の悪いはらわたを晒しているのだ。
どぶのような、腐臭のような、なんともたまらない臭いが鼻をつき、ひどく不快であった。しかし、好奇心から立ち去らずにいると、どうやら警官らしい男たちが池の中に入ってゆく。
何をするのかと身を乗りだして見れば、警官は池の中心でわずかに残っている緑色の水からなにやら一抱えもある布団包みを引きずり出した。 元は赤かったのであろう布地は汚らしく変色し、所々にどす黒いしみが浮き上がっている。
警官の一人が手袋をした手で包みを解くと、中から何とも形容しがたいものがばらばらと出てきた。

それが変わり果てたみつであったことを知ったのは三日も経った後であった。
みつは変質者に連れ去られ、その後、殺されたものらしい。 最近、他で少女がいなくなる事件があって、そこで捕らえられた犯人の余罪を追及してゆくうち、みつのことが明らかになったという。 しばらく私の周囲はその噂で持ちきりであった。
みつのことが噂されるたび、私は内心違う、と叫び続けていた。 みつの物語が、こんなふうに無残な結末を迎えてよいはずはなかった。 しかし、ぎすぎすと味気ない結末はまぎれもない現実であったので、私の美しい物語は完璧に破綻した。



その年の夏がもう終わろうかという頃である。
私は夕暮れ時の商店街のただ中にいた。家路を急ぐ者や買い出しをする者で、そう広くない道幅はごったがえすようである。 時折ざわめきをぬって響いてくる魚屋の掛け声を聞きつつ、私は人の波に乗って目指す方角へと進んでいた。
周りは見知らぬ人ばかりであり、また、仮に知った人がいようとも、たそがれの薄暗がりの中である。曖昧な輪郭を見分けることは全く容易ではない。 一つ一つ意味をなす言葉がついにざわめきに呑まれるように、個々人は群衆に埋没し、がやがやとうごめく流れを形作っている。
私は何ということも考えず、ただ漠然と辺りの光景を視界に入れていたのだが、とある一点に目を向けた時である。私は魅入られたように釘付けになった。
私の斜め前を黒い男が歩いてゆく。 群衆から頭一つはぬきんでているその男は、望洋とした景観の中で唯一くっきりとした存在を保っていた。 その異質さは辺りから際立っており、どんなに遠くからでもすぐに見分けることができそうである。 しかし、不思議なことにその男に気付いたのは私一人のようで、周りの人々は皆そ知らぬ顔で歩いて行くのだ。

さんごうさんだ。

気がつくと、私はさんごうさんを追って走り出していた。 幾度も人の腕やら肩やらにぶつかりながらも、人の波を掻き分け掻き分けして、ようやく手を伸ばせば届く位置まで来た時である。 突如、どおっと強く風が吹き、ざわり身悶えるように街路樹がしなった。
私は、はっとして目の前の肩を掴んだ。しかし、次の瞬間こちらを振り返ったのは見知らぬ初老の紳士なのであった。
どうやら私はさんごうさんを見失ったらしい。
その人はすぐに群集に溶け込んで、もうどこに居るのかも分からなくなった。

これっきり、二度と私はさんごうさんを見つけられないだろう。そんな、確信めいた予感がひどくせつなかったことを覚えている。

それ以来私はさんごうさんに会わない。

2004.6.17

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